前回等で紹介させていただいた二人の生徒の話が意外と好評(?)だったので、調子に乗って今回もその路線を踏襲させてください。

大学卒業直後のモラトリアムの1年を経て、実社会に入ったが、飛び込んだ先は日の本学園であった。そこは生徒も先生も午後のまどろみの中でほんわかと生きている平和な空間であったが、そこで出会ったY子さんについて述べたい。彼女は私がこれまで出会った多くの生徒たちの中で最も聡明で賢明な女生徒の一人だった。赴任した最初の日に当該学年の複数の先生から彼女は偏った考えをもった問題児だから気をつけるようにとわざわざ忠告をして下さった。彼女は一体何をしたのだろうと私の好奇心は大いにふくらみ、彼女の具体的な問題行動はすぐわかった。彼女は中学部の卒業式で事前に先生にチェックを受けていた答辞とは異なる原稿を読みあげ、多くの保護者の前で堂々と学校批判をしたのだった。中学生が卒業式の場で学校批判をやるなんてすごい!とむしろ感動(?)した。自分にはそれだけの度胸はないだけに、そんな早熟な生徒にはぜひ早く話をしてみたいという気持ちにいっそうかられた。(このころの私は2年あまり前に終息した全共闘運動の挫折の余韻を心のどこかにまだひきづっていたのだろう。)会って話をしてみるととても知的で聡明で快活な生徒であった。彼女からは何の問題も感じなかった。彼女は一部の先生からはにらまれながらも、結構だれともうまくつきあい楽しい高校生活を送っていた。それは彼女の行動や人柄が他の多くの生徒には好感をもって受け入れられていたことを示しているように思われた。

その後彼女は一浪を経て早稲田大学の法学部に進み、2年生までは司法試験を目指していたが、法律の勉強の途中で、教育の方により関心をもつようになっていったようだ。理論より臨床というわけだ。大学を卒業すると東京郊外の田無市で友達と学習塾を立ち上げた。塾といっても世の一般的な受験塾ではなく、学校や他の進学塾で疲れ果て不登校になってしまった子や、自閉症の子などを積極的に引き受ける塾であり、問題をかかえた子供にとっていわば駆け込み寺のような塾であった。彼女の人一倍のやさしさ、フットワークの軽さ、すぐれたリーダーシップで、塾はあっという間に大所帯になっていった。それにつれていろいろな補助金などをめぐって行政との折衝も増えていった。そんな場合普通の人なら臆するような煩瑣な多くの提出書類や書かれている専門用語の理解などにも大学で習った法律知識が大いに役にたったようだ。彼女の周囲には早大OBの友達も少なくなく、その仲間たちの支援も塾の成功に大きく寄与してくれたことは確かだと彼女。

塾の様子を少しだけ紹介してみよう。設立当初から体操(野口体操)や野外活動をさかんに取り入れていたが、それはひきこもりがちの子供たちに身体ぐるみの賢さや社会性、協調性を取り戻し身につけてほしいという願いからに他ならない。たとえば、「縄文式生活を体験してみよう」というユニークな企画では、まずマッチを使わずに火をおこす方法を子供たちに考えさせることからスタートするらしい。そうした作業の中で競争に疲れ果て萎えいでいた子供たちの細胞も少しずつ活性化し、活発さや素直さを徐々に取り戻してくる光景も珍しくないらしい。
今でも年に一回程度会って話をするなど、交流は続いているが、ある時彼女はこう言ってくれた。先生との話がいつも楽しく元気がでるのは、つい陥りがちな昔話にひたるのではなく、今やこれからのことについての話が多いからですよ、と。私は本当にいい生徒たちに恵まれた。